自分と他人の関係性についての話

*今回はそんなに面白くないです。許してください。あと短めなので情報量がほぼゼロに近いです。許してください。自分でも何書いてるかよくわかりません。許してください。でも適当に感想を聞かせてくれると嬉しいです。それでは~~

 

昔から、他人と関わるのが苦手だ。別に初対面の人とあからさまに喋れないとか、話を合わせられないとかそういう理由があるわけではないのだが、どうにも他人と交流を持つのに対する苦手意識が抜けない。

 

というよりも、他人の話を聞くのは好きだが、自分のことを他人に話すのが嫌いだ。人はこれをネクラとかインキャとかコミュ障とか言って小馬鹿にするが、逆に自分からしてみればそこまで自分について相手に開示することを心から楽しめ、それに重きを置けるのは素晴らしく意味がわからない。いや、相手の話を聞いてる分には楽しいので別に相手が相手のことを語ってくれるのは嬉しいし、そうでなければ会話が続かないので、それはそれでいいのだけれど。

 

少々話がそれるが、これに関連したこととしては、友人たちがインスタなどに自分の生活を公開する意味が全くわからない。それについてはもはや興味すらわかない。まだ、何か特別なイベントがあって、それについて投稿するのはわかる。そういう特別なイベントで訪れた場所やそこで触れた文化などを他人にも見てもらいたいと思うのは十分に理解できる。だが自分が日々食べているご飯や飲み会の写真などをストーリーにあげたところで、そんなものはその投稿した人間が有名人でもない限り全くなんの意味もない。

 

本題に戻ろう。なぜ自分は自分について話をするのが嫌いなのだろうか。理由は様々あると思う。そもそも口下手であるとか(だがこれに関しては正直鶏が先か卵が先かわからない)、他人にわざわざ話すような話がないとか、滑舌が悪いとか、日本語が下手だ(冗談じゃなくて本当に日本語が使えない、流石に東大模試の国語で得点率under25%を連発していただけのことはある)とか、、、しかし、思うに、一番大きな理由は自分と他人は本質的に相容れないと思ってるところにあるのかもしれない。

 

「自分は自分、他人は他人だから」いつの頃からか、そうやって、自分は今までの人生で他人が自分に干渉するのを嫌がって生きてきた。なぜそうなるに至ったのかはもう覚えていない。とある人はこれを「精神的なマウンティング」という風に形容した。自分の中の核みたいなものを曲げるほどの価値は他人の意見にはないというスタンスであるらしい。そしてその人は続けてこう言ったー「他人をそうやって無意識に見下すことをやめなければ、お前に成長はない」と。

 

どうだろうか。もちろん、自分の中で意識的に他人を見下している気はさらさらない。それどころか、毎日劣等感に苛まれる日常である。だが、全くもって見下していないといえば、それは嘘になるのかもしれない。

 

正直な話、日々人と接している中で、その人のどこが自分より優れているのか、そしてどこが自分より劣っているのか、もしくはもっと簡単に、自分とどこが違って、どこが同じなのか、ということを無意識に判定し、(よく英語ではジャッジする、などの言い方をするが、まさにそれである)そうやって他人と自分を比較することで相手がどんな人間かということを推し量ろうとしている自覚がある。そして大概の人には自分より優れているところも多いものの、何かしら劣っている(≒自分が「マウント」を取れる)ところがあって、その点では他人を見下しているというのはあながち間違いでもないのかもしれない、と思ったりするのだ。嫌な奴だと思う。自分で言うのもだが、自分のような人間は絶対に友人には欲しくない。

 

もちろん、この程度のことがほぼ全人類がやっていることなのかもしれない。だが、自分の場合、そうやって他人と自分との比較をしすぎるあまり、自分の中で「他人に対する自分」の方が「自分に対する自分」よりも強いという状況が生まれている、そんな気がする。余談になるが、つい最近見た東大生のブログの中で、東大生が持つエリート意識について語ったものがあった。要約すると、東大生は今までの人生でエリートであることに慣れているために、社会がそうやって東大生に求めているであろう「エリート像」をめざすことから外れられないといったものだったが、そういったエリート意識こそ、「他人に対する自分」の極致であると思う。

 

そして、自分の場合、そういった状況のなかで一番心地よく生きるための解決策として、自分の内面を他人に公開する意味をあまり感じないようにする、ということを、どこかのタイミングで体得してしまったのではないだろうか。皮肉なことである。他人との力関係を重視しすぎるあまり、他人に無関心になる、という方法が一番自分にとって楽だ、というのだから。このポイントは1個目のブログエントリーに書いたような「理性が感情を抑えつける」みたいなところとか、2個目のアセクシュアルの話とかにも繋がる気がして、とても興味深い。

 

ここまで書いてきて、こういってブログエントリーを書くことは他ならない「自己を他人に公開する」ことであるのに、なぜ自ら進んでこんなことをしているのだろうという疑問が湧いた。なぜだろうか。気心知れた友人しか見ないとわかっていて、その友人たちに対してはジャッジしないし自分がジャッジされることもないからだと思っているからだろうか。そういう意味では、自分はなんとも都合のいい人間である。