自分と他人の関係性についての話

*今回はそんなに面白くないです。許してください。あと短めなので情報量がほぼゼロに近いです。許してください。自分でも何書いてるかよくわかりません。許してください。でも適当に感想を聞かせてくれると嬉しいです。それでは~~

 

昔から、他人と関わるのが苦手だ。別に初対面の人とあからさまに喋れないとか、話を合わせられないとかそういう理由があるわけではないのだが、どうにも他人と交流を持つのに対する苦手意識が抜けない。

 

というよりも、他人の話を聞くのは好きだが、自分のことを他人に話すのが嫌いだ。人はこれをネクラとかインキャとかコミュ障とか言って小馬鹿にするが、逆に自分からしてみればそこまで自分について相手に開示することを心から楽しめ、それに重きを置けるのは素晴らしく意味がわからない。いや、相手の話を聞いてる分には楽しいので別に相手が相手のことを語ってくれるのは嬉しいし、そうでなければ会話が続かないので、それはそれでいいのだけれど。

 

少々話がそれるが、これに関連したこととしては、友人たちがインスタなどに自分の生活を公開する意味が全くわからない。それについてはもはや興味すらわかない。まだ、何か特別なイベントがあって、それについて投稿するのはわかる。そういう特別なイベントで訪れた場所やそこで触れた文化などを他人にも見てもらいたいと思うのは十分に理解できる。だが自分が日々食べているご飯や飲み会の写真などをストーリーにあげたところで、そんなものはその投稿した人間が有名人でもない限り全くなんの意味もない。

 

本題に戻ろう。なぜ自分は自分について話をするのが嫌いなのだろうか。理由は様々あると思う。そもそも口下手であるとか(だがこれに関しては正直鶏が先か卵が先かわからない)、他人にわざわざ話すような話がないとか、滑舌が悪いとか、日本語が下手だ(冗談じゃなくて本当に日本語が使えない、流石に東大模試の国語で得点率under25%を連発していただけのことはある)とか、、、しかし、思うに、一番大きな理由は自分と他人は本質的に相容れないと思ってるところにあるのかもしれない。

 

「自分は自分、他人は他人だから」いつの頃からか、そうやって、自分は今までの人生で他人が自分に干渉するのを嫌がって生きてきた。なぜそうなるに至ったのかはもう覚えていない。とある人はこれを「精神的なマウンティング」という風に形容した。自分の中の核みたいなものを曲げるほどの価値は他人の意見にはないというスタンスであるらしい。そしてその人は続けてこう言ったー「他人をそうやって無意識に見下すことをやめなければ、お前に成長はない」と。

 

どうだろうか。もちろん、自分の中で意識的に他人を見下している気はさらさらない。それどころか、毎日劣等感に苛まれる日常である。だが、全くもって見下していないといえば、それは嘘になるのかもしれない。

 

正直な話、日々人と接している中で、その人のどこが自分より優れているのか、そしてどこが自分より劣っているのか、もしくはもっと簡単に、自分とどこが違って、どこが同じなのか、ということを無意識に判定し、(よく英語ではジャッジする、などの言い方をするが、まさにそれである)そうやって他人と自分を比較することで相手がどんな人間かということを推し量ろうとしている自覚がある。そして大概の人には自分より優れているところも多いものの、何かしら劣っている(≒自分が「マウント」を取れる)ところがあって、その点では他人を見下しているというのはあながち間違いでもないのかもしれない、と思ったりするのだ。嫌な奴だと思う。自分で言うのもだが、自分のような人間は絶対に友人には欲しくない。

 

もちろん、この程度のことがほぼ全人類がやっていることなのかもしれない。だが、自分の場合、そうやって他人と自分との比較をしすぎるあまり、自分の中で「他人に対する自分」の方が「自分に対する自分」よりも強いという状況が生まれている、そんな気がする。余談になるが、つい最近見た東大生のブログの中で、東大生が持つエリート意識について語ったものがあった。要約すると、東大生は今までの人生でエリートであることに慣れているために、社会がそうやって東大生に求めているであろう「エリート像」をめざすことから外れられないといったものだったが、そういったエリート意識こそ、「他人に対する自分」の極致であると思う。

 

そして、自分の場合、そういった状況のなかで一番心地よく生きるための解決策として、自分の内面を他人に公開する意味をあまり感じないようにする、ということを、どこかのタイミングで体得してしまったのではないだろうか。皮肉なことである。他人との力関係を重視しすぎるあまり、他人に無関心になる、という方法が一番自分にとって楽だ、というのだから。このポイントは1個目のブログエントリーに書いたような「理性が感情を抑えつける」みたいなところとか、2個目のアセクシュアルの話とかにも繋がる気がして、とても興味深い。

 

ここまで書いてきて、こういってブログエントリーを書くことは他ならない「自己を他人に公開する」ことであるのに、なぜ自ら進んでこんなことをしているのだろうという疑問が湧いた。なぜだろうか。気心知れた友人しか見ないとわかっていて、その友人たちに対してはジャッジしないし自分がジャッジされることもないからだと思っているからだろうか。そういう意味では、自分はなんとも都合のいい人間である。

自分はasexualかもしれない、という話

*ブログ第2弾です。今回はちょっと短めです。前回に引き続き恋愛の話になっちゃうけどごめんなさい。暇がある時に読んで感想でもヤジでも飛ばしてくれると非常にありがたいです。別にそんなシリアスなリスポンスはいらないので適当に思ったことをバンバン聞かせて欲しいです。

 

 

生まれてこのかた、恋愛をしたことがない。これまでに好きな子はいたことがあっても、その全ては自分の一方的な思い(というより、「あの子かわいいな」「あの子おもろいな」とかそういうレベルのものでもはや「思い」と呼べるものですらない)で終わっていて、何が何だかよくわからない感情のまま自分の中でいつの間にか自然消滅していった。最後にそういう恋愛っぽいものに触れたのは小中の頃に好きだった女の子(多分相手も自分のことをそう悪く思っておらず、バレンタインのチョコをもらったりたまに遊んだりしていたが、お互いあからさまに恋愛感情を出すこともなかったので恋愛対象として好きだったのかすら不明である)との謎の関係だったが、それもまともに「恋愛」と呼べるものですらない関係のまま終わってしまって、結局自分の中での恋愛経験値はほぼ蓄積されないままここまで来てしまった。だから恋愛がなんなのかいまだに全くわからない。

 

先学期の失恋(?)の話(なんのことかわかってない人は詳しくはブログ第1弾参照)も、今から考えてみれば「価値観が合うと思っていた人が実はそうではなかった」というだけの話で、その相手がたまたま女の子であっただけで、別に失恋ではなかったのではないかという気がするのだ。要するに、その相手に対する「好き」は友達としての「好き」であったということである。「価値観が合うと思っていたがそうではなかった」からの「自分について深い質問を投げかけられた」というダブルパンチが入ったことで、ダメージが余計大きくなっただけではないかと思う。

 

結論から書こう。自分はどうもアセクシュアルではないかという気がする。つまり、恋愛ができない。他人に対して愛情は持てても、恋愛感情は持てない。誰かを友達としていくら好きになろうが、恋愛対象にはならない。そんな気がする。

 

そうはいっても、恋愛が何かわかっていないので、自分がアセクシュアルであることに確信を持てずにいる。まず、友達としての愛情と恋人としてのそれの違いがわからない。基準の違いだろうか。恋人ならここまで献身的になれるけど、友達ならここまで、みたいな感じなのだろうか。それともこの二つは一緒で、ただ一つの違いは自分の性的指向だけなのだろうか、つまり、好きな人がいて、その人と肉体関係を持てるか持てないかということが友人と恋人との違いなのだろうか。

 

別に恋愛自体を嫌っていたり、恋愛したくないわけじゃない、と思う。恋人同士として誰かと一緒に時間を過ごして生活を密に共有するのは素敵だと思うし、お互いに支え合って生きていくのはきっと自分の人生をより豊かにしてくれるだろう。恋人から受けられるサポートは多分自分の中で他の誰から受けられるどんな助けよりも大きな助けになるのだろう。それと同時に、別に女性(もしくは男性も)を魅力的だと思わないこともない。先に書いたようにかわいいとか美人だと思う女性はいくらでもいるし、かっこいいと思う男性もいくらでもいる。というよりむしろほぼ毎日そう感じることの連続で、文字通りhave a crush on everyoneといっても過言ではないような気がする。ただ、それらがそこで終わってしまうのが、どうにも他の人と違うところではないかと思う。

 

このブログを読んでいる僕の友人諸兄&諸姉はほぼ異性愛者だと認識しているが(もしそうでないなら、このあなたについてどうしようもなく無知な友人をどうか許して欲しい)、もしあなたが男性なら身近にとんでもないイケメンで性格も良く自分と気が合う人がいることを、女性なら身近にとんでもない美人で性格も良く自分と気が合う人がいることを少し想像して欲しい。あなたはその彼・彼女に「こいつめちゃイケメンやな」「その子美人だよね」「あの人はいい人だな」という感想を持つことができる。もしくは、ある程度性的な視点を入れるとしても、「あいつはダンディだ」とか「あの子色っぽい」という感想すら持つことができる。しかし、あなたはその人と友達になることはできても、恋人になろうとは思わないだろう。

 

だが逆ならどうだろうか。男性諸君は身近にどうしようもない美人で性格も良く気が合う人がいることを、女性諸姉は身近にどうしようもないイケメンで性格も良く気が合う人がいることを想像して欲しい。あなたはきっと、その人と友達になろうと努力するだろう、その人と肉体関係を持ちたいと思うだろう、そしてあわよくばその人の心を手に入れたいと願うだろう。

 

自分にはそういった感情がない。恋愛をしたいとは思いつつも、どこの誰に対しても、男性諸兄が同性のイケメンで気が合う相手に対して、女性諸姉が同性の美人で気が合う相手に対して持つような感情の段階で止まってしまう。つまり、美人を見て「美人だな」とかイケメンをみて「イケメンだな」という感想ーちょうどあなたが優れた容姿を持つ同性に対して持つ感想ーを持つだけで、友達にはなりたいと思うものの、何か特別な関係になろうと思わない。誤解を恐れず言えば、友達というポジションを捨てて恋人になりにいこうとする姿勢が理解できない。

 

世の中の人は自分が誰かを見て「あの子綺麗だな」とかいうと「話しかけてこい」みたいな感じで煽ってくる。そうやって煽ってくる人たちに悪意がないのはわかっているので、そういうアレじゃないんだよなと思いつつも反論もなく流したりするが、自分が恋愛をすることを期待されているようでしんどい。自分にとって女性(あるいは男性)を見て綺麗だと思うことはその子が恋愛対象であることと同値ではない、というか必要条件でも十分条件でもないもの(誰かが恋愛対象であるという事象が空集合状態)なので、どう反応すればいいのか非常に困る。

 

もっと率直に言うと、誰かと肉体関係を持ちたいとあまり思わない。肉体関係についても全く経験がないので、肉体関係を持ちたくないというと食わず嫌いのようになってしまうし「童貞のくせになに強がってるんだこいつは」という話になりかねないのだが、誰かと肉体関係を持つ意味が、よくわからない。これもまた、概念自体は非常に素敵なことだとは思う。他人と密な一夜を過ごすのって非常に楽しそうだし、お互いのことを知る・互いに支えあっている実感を得るのに役に立ちそう、そしてもしかしたらその一連のプロセスは心地よいのかもしれない。しかし、同時にそれが別にセックスである意味が、よくわからない。

 

ここまで書いてきて、なんで今このタイミングでこんなことに気づいたのか、ということについても考えがいったので少し書いてみようと思う。そして、この質問に対する答えは男子校生活そのものであると思う。男子校に入ったが故に、自分は、他の人が恋愛についてもっとも経験を積むであろう時期を恋愛に全く無関心なまま過ごしてしまった。振り返ってみれば中高でまともに恋愛に触れたことがない。他の学校の友人との繋がりもほぼなく、女性との繋がりもほぼなく、同期の友人の恋愛話もほぼなく、もし友人の恋愛話を聞いてもその相手の女性が誰か知らないのでなんの話をしているのかさっぱり、という状況で、恋愛について真剣に考える機会がなかった。そうすると、自分の中での恋愛観みたいなものは完全に他の同年代男子が持つであろう恋愛観に頼るしかなく、結果、自分も周りと同じだと、あまり深く考えることもなく信じていた。また、ゲイセクシュアルの人ならば自分が周りと違うと気づくのも容易いのかもしれないが、周りに女性がいない男子校という空間では誰も恋愛をしていないのがデフォルトなのである。自分がもし仮に本当にアセクシュアルだとして、それに気づくのは(実際何も気がつかなかったわけで)到底無理だっただろうと思う。

 

繰り返しになってしまうが、別に恋愛に対して嫌悪感があるわけでも性交渉について嫌悪感があるわけでもない。むしろ、もし自分がその相手を人間として好きで、相手も自分に恋愛感情を抱いているか、もしくは二人の間に合意があるのならば、恋愛っぽいものも性交渉っぽいもの、もしくは結婚生活っぽいものでさえもできるような気はするし、経験として・また自分が本当にアセクシュアルなのか確かめるためにそれらをやってみたいとすら思う(まだこのようなことを言えるあたり、完全にアセクシュアルというわけではないのかも?)。もしかすると恋愛関係のようにお互いを無償で支え合うことのできる関係性が自分が大学生活を生き延びる上で僕が今一番必要としているものなのかもしれない、とも思う。だが、自分の中で、恋愛とその他一連の諸々は経験としてやりたいだけで、もし将来どこかのポイントでそういう経験をすることになったとしても、それは自分の中で純粋に恋愛感情とか性的欲求からくるものにはならないのだろうとも(あくまで推測の域を出ないわけだが)思う。そしてーこれも僕の勝手な推測だがー純粋に恋愛感情からくる関係性でなければ、その関係は多分恋人でないし、二人に間にある何かは恋愛ではないのだろう。

 

人はこうやってよくわからないドツボにはまっている自分を慰めるために「どっかでいい人が見つかるかもよ?」なんて言葉をかけてくれたりする。でも、もし本当に自分がアセクシュアルならそういう未来はこないわけで、そうやって自分にかけられた言葉は、純粋な厚意に裏打ちされたものでありながら、その言葉が意味するものとは全く逆のシチュエーション、つまり、自分は自らが課した枷に縛られて、他の人が描くような「幸せな生活」とかそういうものはないまま一人で生きて死んでいくというシチュエーション、を直視させてくる。この暗澹たる将来設計を考えるたびに、それはしんどいから御免だと感じると同時に、別に恋愛しなくていいならそれでいいじゃんというような、ちょっと安心したような気持ちにもなる。

 

だから、正直な話、自分でも何をどうしたいのかわからない。というよりもまず、どうにかなるものでないのかも、どうにかなるものなのかもわからない。いつに日か白馬に乗った王女(王子?)が現れて自分の麻痺した感情を完全に解きほぐしてくれるのかもしれないし、もしかしてそこらへんの女の子と適当にhook upを繰り返していれば改善(?)するものなのかもしれないし、もしかしたらこれは一生このままで、自分はこのまま独り身でいくのかもしれない。ただ今唯一わかることは、自分はアセクシュアルかそうでないかのグレーゾーンにいるのだろう、ということだけだ。

ある大学生が感情と理性について考えすぎた話

*文体が気持ち悪いですがご容赦ください。

 

「文化の違い」と言う言葉は、別に特段理解し難い言葉ではない。それはなぜなら自分の所属するコミュニティと他のコミュニティが違う、もしくは自分と他人が違うことなど、考えるまでもなく当たり前なこととして理解できるだからだ。例をあげれば、一般的にアメリカ人は、まず使っている言語や食べているものが違うと言う事実に始まり、趣味や嗜好、人生観などにおいて日本人のそれとは全く違うことであろうと言うことはアメリカに全く足を踏み入れたことがない日本人でも想像がつく。想像がつくし、理解ができる。「違う」と言葉で割り切るのは非常に簡単である。そもそも同じ日本人のなかでも「あいつは俺とは違うから」とか、「あいつはちょっとやばいやつだから」と言うのは容易で、そう考えることによって他人の不可解な言動に何かしらの理由をつけようとする。

 しかし、そういった違いがあることを理解できることは、必ずしもその何かしらの違いを自分の中で「受け入れる」ことができると言うことと同値ではない。というよりむしろ、ある意味「違う」と断定することでそれ以上深入りし、自分と異質なものを受け入れようとすることを避けているのかもしれない。例えば信仰する宗教一つとっても、キリスト教を信じる人に取っては、別の人間がイスラム教を信じるという事実は理解できても、その別の人間がなぜイスラム教を信仰するのかということは理解できない。であるから、キリスト教徒がより詳しくイスラム教について知れば知るほど、イスラム教徒を気味悪いと思ってしまうという事例は多々あるし、その逆も然りである。そして、そういうような「文化の衝突」から生まれる不毛な争いは最初からしないと決めておくのがまさに”Diversity”の観点である。この世界には様々な人種がいて、様々な宗教があり、様々な価値観があって、それらがお互いに理解し会って歩みより、みんながみんな同じような理想に向かって歩調をあわせるなんてことは不可能なので、だからお互いにお互いを尊重しあって、たとえ理解はできなくても、お互いのテリトリーを攻撃することはないようにしようというのがDiversityであると思う。

 ただ厄介なことに、人間はそう割り切れるほど単純でもない。別段仲も良くないやつならばいいが、仲がいい人間に対してはやはり自分と同じ価値観なり何なりを共有していることを求めてしまう。同じ時間を過ごして気が合えば合うほど、こいつは自分と同じようなやつなのだという勝手な推測や願望みたいなものが生まれてくる。そして、自分と違う価値観なりモノの見方なりを持っていることを期待しなくなっていく。そうやってその関係が続いていく中のある特定のポイントで自分とその相手が違うと言うことを感じた時に、勝手に失望したり落胆したりするのだ。この文章はそういう些細な違いみたいなものにぶち当たって、それをスルーすることができずにぐちゃぐちゃ考えているうちに何かよくわからないより深いことについて考えを巡らせてしまったアメリカに留学している男子大学生の話である。

  

 留学して初めての学年の初めての学期である2018年の秋学期の終わり頃に、好きな女の子ができた。名前はSとしよう。Sは取っていた統計の授業のファイナルプロジェクトでたまたま一緒になったトルコ系アメリカ人の割と可愛い女の子で、自分より一つ年上の二年生である。その子はアメリカで生まれたものの両親はトルコ人で高校までをトルコで過ごし、留学生である僕の境遇をよくわかってくれた。また二人とも経済専攻と言うこともあり、話も合い、また二人とも賢かった。いつしかプロジェクトだけで関わる関係ではなく二人で期末試験に向けて勉強したり、息抜きに映画にいったり、ご飯にいったり、彼女の部屋で何時間も他愛も無い話をしたり冗談を言い合ったりするような関係になっていた。そんな中で段々好きになっていったし、向こうも自分のことが好きなようだった。お互い、相手のことが好きなのは明らかだったが、その「好き」は友達として好き、と恋愛対象として好き、の狭間にある「好き」だったように思う。友達以上恋人未満というわけである。

 学期が終わって二人とも休暇で母国に帰ってからも、メッセージでのやり取りは続いた。学期末に観に行った映画や次に観る映画の話や、彼女が住むイスタンブールのいろんな話(僕は歴史が好きなので、彼女がイスタンブールに住んでいると言う事実は余計彼女を好きになる原因になった)、僕の母国である日本の話、彼女と彼女のルームメイトがいかに仲が悪いかという話(Sはなぜかルームメイトに関して非常に運が悪かった)、あとはとりとめもない日常の話など。その冬の休暇は楽しくて仕方がなかった。日本の友人に会って楽しい時間を過ごす時間はもちろん、僕は彼女からのメッセージを見るのをとても楽しみにしていた。僕は日本に帰ってから、自分が明らかに彼女のことが好きであることを悟った。でもそれをメッセージ上で伝えたくはなかったし、それを今更伝える勇気もなかった。知り合って1ヶ月で友達としてかなり関係が進んでしまっているのに、今更どうやって感情を伝えれば良いのかわからなかった。そこで無理やり自分の感情を強引にでも伝えるには、大した恋愛経験もない僕は少し「紳士的」すぎた。それに、僕自身の感情としてあまりSNS上で感情を伝えたくないという思いがあった。もし伝えるとしても、それは次に直に会った時でいいか、という気持ちがあった。

 そうやって友達関係を維持する中で次の学期が始まって、二人でまた映画を見たりご飯を食べに行ったりしようかと話していた。学期が始まって2、3日経ったときのこと。突然Sからこんなメッセージが来た。「統計のプロジェクトで同じだった他のメンバーの1人からインスタでフォローリクエストが来て通したら『hook upしよう』ってメッセージが来たんだけど。」

プロジェクトには他に4人のメンバー(全員男)がいて、合計6人のチームだった。僕と女の子を除いた他の4人は同じfraternity(サークルのようなものだが、サークルとは違い何か目的があるわけではなく、男同士でコミュニティを作ってまるで兄弟のような仲間を作ろうという感じのウェイ団体。家を持っていて、週末は大体その家でパーティを開いて周りの学生を集め派手に遊ぶ)に所属していて、すでに出来上がっていたそのグループに教授が無作為に僕と女の子を組み込んだのがそのプロジェクトのグループだった。

 その4人の中に、1人4年生の男がいた。Jと呼ぼう。そいつは僕が1年生で取っている科目を4年生で取っていることからもわかるように、どうしようも無いバカだった。まるで授業の内容を理解せず、プロジェクトも手伝わない。しかし性格に難があるとか邪魔をしてくるというわけでもないし(むしろ性格はいい人であるとおもう)、僕は元からチームを組んでいる4人にプロジェクトに参加させてもらっている立場だから、Jに対して攻撃的な態度を取ることに意味はないと判断して、ほぼそのJを無視状態でプロジェクトを進めていた。Sもプロジェクトを進めているときは僕と同じようなことを考えていたようで、別にJに近寄ることもなく、離れることもなく、という感じに見えた。

 そのJから、プロジェクトが終わってhook upのお誘いがあったというわけである。それがつまり肉体関係を持とうというお誘いであるということは僕はすぐ理解したし、彼女も理解していた。突然のことに少し衝撃を受ける僕に、彼女はこう続けてメッセージを送ってきた。「もちろん、Jのことは全然知らないし、今そうするのは違うってメッセージを送った。だけどそうしたら彼は『君が嫌ならば、デートでもいい』って送ってきた。」もちろん、僕はSが好きだから、二人がデートに行くことに対してよくは思わない。それによりにもよって相手はあのJである。だが、それと同時に僕は彼氏でも何でもないので、そこで感情的になってSにデートに行くなと言うことは何の理も通らないように思った。そこで僕はこう言った。「もし行きたくなかったら断ればいいし、行きたいと思う気持ちがあるなら行ってみてもいいんじゃないか。だけどJは4年生で経験も豊富だし、fratに所属してるし、いくらデートに誘ってその気があるようなそぶりを見せていても、多分体だけの付き合いを求めている。だから気をつけて。もし何かあればすぐに連絡してきて。」彼女は僕がそのような気遣いを見せたことに感謝しつつ、とりあえず今の時点で何かされたわけではないし、とりあえずランチを共にするくらいなら行ってみようと思う、との旨の発言をした。僕は少し気がかりだったが、彼女の言うことを尊重しようと思ったし、尊重するしかなかった。その後2、3週間はSと僕のメッセージの合間にSがJと何回か会ったことを報告してくるのを聞いて苦い気持ちにはなれど、他には別に何も思わなかった。それどころか、Sに「Jのことが好きなの?」などと冗談めかして聞いてSがそれを否定するメッセージを見て、少し優越感すら覚えていた。

 そうやってメッセージをやり取りする中で、学期が始まってから4週目になろうかという月曜日、僕とSは晩御飯に行くことになった。新学期始まってから何回か会っていたものの、初めてまともに共に時間を過ごせる機会だったので僕はとても楽しみにしていた。僕たちは夜8時に集合して、適当なレストランで晩御飯を食べ始めた。取っている授業の話や日々の生活についての他愛もない会話をして楽しい時間を過ごしていくうちに、僕の頭の中にふと疑問が浮かんで、それをSにそのままぶつけた。「あれ、そういえばJとの関係って今どうなってるの?」彼女はそれについて詳しく話がしたいと言い、話が長くなりそうな感じだったので、晩御飯を終えかけていた僕たちは別のカフェに場所を変えることにした。カフェに行って飲み物を啜りつつ、彼女と僕はそれについて話を始めた。

 Sは時系列に沿って何が起こったかを順に話していった。Sは僕のノートの裏表紙を使って何が起こったかのフローチャートすら書いて、丁寧に説明した。大概のことは僕が既に彼女からメッセージで聞いて知っていたことなので、僕は別に驚きもなかったし、事実の再確認だけであった。ところが、ある程度話し終えたかと思ったとき、彼女はこういった。「実はこの前の金曜日 ー要するにその日の三日前の金曜日であるー Jと晩御飯デートに行ったんだよね。」僕はそれについて詳しくは知らなかった。嫌な予感がしながらも、僕はこう返す。「ほう。どうだったの?」

 彼女はこう言った。「晩御飯にいった後、彼の家に行って、合意のもとセックスした」と。

 頭が真っ白になった。なんで?まだたったの3週間だし、それにあんなに注意したのに。その後彼女は続く土曜日にもJと会ったこと(その時はテレビを見ただけらしい)を話したが、僕はそんなことはほぼ聞いていなかった。

 僕は混乱した。様々な感情が混ざってなんともいえない気持ちになった。僕は彼女がそうやってしょうもない男に簡単に体を許してしまうことに落胆した。彼女が好きだったからこそ、勝手に裏切られた気分になった。また、僕自身がこんなことでこんな衝撃を受けるほど彼女が好きだったことに気づき、やるせない気持ちになった。彼女がこういう人間だと見抜けなかったことに情けなくなった。もっと早く告白しなかったことを後悔した。Jが彼女を取ったことを嫉妬もした。

 しかし最も大きかったのは、彼女がもっと貞操観念のしっかりしている人だと思っていたことからくる驚きと失望だ。要するに、彼女とある程度長く過ごし、ある程度気が合っていて、無意識のうちに彼女に自分と同じような価値観(この場合は貞操観念)を持っていることを勝手に期待していたのだ。それに気づいた時、僕は自分自身にも失望した。

 こうしたごちゃごちゃの感情をなんとか抑え、僕はSにこう聞いた。「なんでそうなったの?」彼女の答えはこうだった。「デートを重ねるうちに趣味が意外と合うことに気づいたし、経験があるからエスコートの仕方がうまかった。それに顔もまあまあイケメンだと思うし(これを聞いたときは単純に驚いた。嫉妬とかではなく僕の中でJはお世辞にもかっこいいなどとは思っていなかったからだ。)、私は別にヤってもいいかな、って思った」僕はSのことを本気で心配するの半分、嫉妬半分でこう続ける。「でもJはクソなやつだし、あなたとヤって都合のいいところだけ取りたいことは明らか。俺はそれをいい関係だとは思わない」Sはこう返す。「私だってJの悪い噂はたくさん聴いてるし(JとSには共通の友人が何人かいる)、あなたのそのアドバイスが100%正しいことはわかる。でも今はそれに感情が追いつかないし、別に都合の良い関係の都合のいいところだけを取っているのは私も同じ。別に真剣に付き合ってるわけじゃないし。それにアメリカの男女関係なんてこんな感じなのよ」感情が追いつかないのはこっちもだ、と思いながら僕はこう食い下がる。「そんな関係を続けていってもなんのメリットもないし、結果的にあなたが傷つくことにしかならない。Jと友達として付き合うのはまだしも、そういう関係はやめた方がいい。」Sはこう言う。「あなたのロジックはいつも正しくて私を思ってくれてるのはわかるけど、本当に今回ばかりは感情が追いつかない。もはやロジックが正しすぎて感情が否定してる気もする」ここまで言われるともはやSは何も聞かないだろうと思い、もはや半分自暴自棄にすらなってしまった僕はこう言った。「ホメロスの『イーリアス』は読んだことある?俺は今イーリアスの登場人物の中の一人、カッサンドラーの気持ちがよくわかる。正しいことを言っているのに人が信じてくれないって言うのは多分こう言う気持ちなんだろう。」彼女は笑った。僕のたとえ話が気に入ったのかもしれない。しかし僕は、こう発言しながら、客観的にこの一連の会話を見たときに自分が感じているはずの苛立ちや怒り、嫉妬や自分のSに対する恋愛感情などを全く表すことなく、いつものトーンで、また表情も変えることなく会話していることに驚いた。もっといろんな感情が噴き出してきてもいいはずなのに。そう思いつつ、僕はさらに続ける。「こうやって俺は相手のことを本当に心配していて、話もちゃんと聞いているのに、Jみたいなやつのほうが先に女の子を捕まえる。俺はきっとこの先も女の子のことはわからないし、きっと彼女もできないだろうね」僕はさらに驚いた。まさかこんな冗談なのか自虐ネタなのかわからないネタを言える余力が自分にあるとは。自分で自分に戸惑う僕を傍目に彼女は頭を横に振りながら、こう返答する。「違う。あなたは成熟していて、紳士的で、教養もあって、Jの100倍いい人で、Jの性格がピラミッドの最下層にあるとしたらあなたはピラミッドの最上部にいる。多分付き合ったら楽しいと思う。ただ今はそういった関係を私が求めてないだけ。私はこのままもうちょっとJと付き合って、この先どうなるか見てみたい。」

 僕はそこではっきりと感じた。ああそうか、こいつはずっと俺のことを友達としか見ていなくて、今、それがこいつの意思かどうかはともかく、俺ははっきりと振られたんだな。まだ告白すらしていないのに。

 そう思うと悲しさやそれに類する何かしらの感情が生まれ、それを表すような行動にとっても良さそうなものだ。しかし、僕の感情は余計に混乱していくだけで、むしろ好きだ、と言う感情が冷めていくようにすら感じた。そのあとは二人で飲み物を飲み終わるまでカフェにいて、SとJの関係について、Sとどうでもいい議論を交わしたりした。僕は少し自分を取り戻し、「あなたがJとデートするなら、俺とあなたがデートする方がまだマシになりそうだ(“Even I would be better as your date than J.”)」なんてヤケクソなのかそうでないのかわからない冗談を吐いたりした。そんなことを言うたびSはいちいち「”まだマシ” なんて言わないで。絶対そっちの方がいいに決まってるんだから。(“Don’t say ‘even’. Of course you would definitely be better.”)」なんてフォローを入れてきたが、僕はもうこの関係が行き着く先は友達しかないことをすでに悟っていた。

 二人が飲み物を飲み終えたとき、すでに時間は11時を回っていた。僕とSはカフェを出て、帰り道を歩き始めた。そこで僕は急にトイレに行きたくなり、彼女の家のトイレを貸してもらうことにした。彼女は快諾し、僕はSの部屋に上がった。これは彼女の家に行くと毎回なのだが、必ずお互いにどちらから始めるともなく何かの話で盛り上がってしまう。その時も僕がトイレを借りて終わりというわけには行かず、どこからともなくお互いの恋愛遍歴の話になった。僕はもちろん何か胸を張って言えるような恋愛遍歴もないので、彼女のそれまでの彼氏の話がメインになった。彼女曰く「私のいままでの彼氏は(そして彼氏になりかけているJを含め)みんな『悪い』男だった。多分初めての彼氏が警察から目をつけられるほどのワルで、その彼を好きすぎたのが問題だったのだと思う」ということなのだが、これは彼女が僕を「いい人」と思っていることを知っている僕を余計に混乱させ、また彼女が自分とは違う価値観を持つ人間であることをさらに自分に確認させ、僕の恋愛感情を冷めさせることにしかならなかった。僕は眠さから徐々に働かなくなっている脳を回転させて、こう答えた。「そうやっていつまでも過去に引きずられて、ここから先もクソ男と付き合っていくの?俺はそんな人生ごめんだね。」なんの気なしに言ったつもりだった。だがSはこう答えた。「あなたはいつもそう。将来のことを見据えて、そこから逆算で今の行動を決めてる。あなたの人生のグラフは指数関数で、さらに良い将来はあるかもしれないけど、それって理性的に考えてやるべきことをやってるだけで『今』は楽しくないし、『今』を生きてなくない?」黙る僕に、彼女は続けた。「それに対して私のグラフはサインカーブ。わたしは今自分の感情がしたいと思ったことをして、『今』を生きてる。この生き方をしていたらもしかしたら死ぬ間際にはどん底にいるかもしれない。後悔することだってあるかもしれない。だけど今したいことをやるのって、それが一番幸福で、満足いく人生を送れると思わない?」

 僕は何も言えなかった。その通りだ。自分の今までの人生を振り返って考えてみたら、今までの人生は全部自分の未来への投資の集まりだ。今大学でやっていることだってそうだ。今までの人生のほぼ全てを占めている勉学に励んできたのだって、社会に出た時に困らないようにするためだ。日本とアメリカの大学を両方受験して、アメリカに進学したのだって、その方が自分のやりたいことが将来的に見つかると思ったからだ。今自分が勉強しているのだって、近い将来では学期末にいい成績を取るため、遠い将来にはいい就職口を見つけるためだ。自分の将来の夢として設定している職業を決めた理由だって、それに就くことができれば安定するといいう打算があるから、もしくはいわゆる「エリート」である自分に社会が寄せている期待に添えるからだ。別に勉強や就職に限らずとも、自分がSに自分の気持ちを伝えることができなかったのは、自分が告白することによって彼女が傷つくことを避けたかったからで、未来の自分に起こりうる結果を理性的に予測し、悪い結果と良い結果を天秤にかけて、自分にとって安全な選択肢を選択したからだ。自分が彼女とこうやって会って、会話をしても感情的になることなく平静を保って応対できるのは、そんなことをすることには何の意味もないと理解しているからだ。他人に対してあからさまに感情を表さないのは、自分の理性が、それがその人との関係に何もメリットをもたらさないことを知っているからだ。

 もちろん、このような決断が僕の意思を全く無視したものであるわけではない。勉強をしているのは単純に勉強がしたいからという理由ももちろんあるし、彼女に告白しなかったのは自分の感情が彼女に嫌われることを避けたかったからという理由もある。しかし、僕の中には純粋に理性からくる行動はあっても、純粋に感情からくる行動はないのだ。そういう意味では確かに、自分がどちらかと言えば理性的な人間であることは前から理解していた。周りの友人がなぜパーティに行きたがるのかも、ただのサークルや部活の飲み会などで吐くまで飲んで楽しいのかもわからず、そうやってある意味獣のように欲求を発散する友人を見て、お前らには人間の尊厳すらないのか、と半ば軽蔑すらしていた。しかし、僕は彼女の発言で、僕自身が「理性的」である理由は自分の理性で感情を完全に押さえつけられる、というより自分の感情からくる「~したい」という欲求が、生きていく上で基本的な欲求を除いて、無意識のうちに理性というフィルターにかけられているからだ、ということに気づき、ショックを受けた。俺はそんなに理性で感情を殺してきたのか。俺は今までの人生で何をしてきたんだろう。

 混乱して少し黙ってしまう僕をみながら、彼女はマリファナを紙で巻いたものに火をつけ、ゆっくりと吸い始めた。「ねえあなたもやらない?」彼女が差し出すのを受け取り、自分も吸いながら、どうかこの薬物が自分に問いに対する答えを与えてくれるようにと願った。しかしマリファナの煙は僕の脳を余計混乱させるだけで、何の役にも立たなかった。僕はすぐにそれを彼女に返した。

 僕は長い沈黙の後、自分でもびっくりするくらい落ち着いた声でこう質問した。「じゃああなたがやりたいと思っていることっていうのはJとセックスすること?それとも大学で勉強すること?それで幸福が得られるの?あなたが『今』を生きるってどういう風に捉えているの?」彼女はこう答えた。「ううん、確かに今やっていることは今を楽しむためにやっているし、それである程度は楽しいけど、そんな微細なことはどうでもいいの。私は今コロラドで牧場でも買ってそこでのんびり暮らしたいって思ってる。そういう夢はあなたにはないの?」僕は少し考えたが、またそこで自分にこれと言ってそういう類の夢がないことに驚いた。僕は少し笑いながら、こう答える。「わからない。でも自分がしたいことってもっとプラクティカルなところにあって、そういうことにはないと思う。コロラドの牧場なんて俺なら3日で退屈してしまいそうだ」彼女は笑いながら、僕をおちょくるようにこう返答する。「あなたって本当にロボットみたいな人ね。いつもまるでそういうプログラムがあるみたいに合理的で論理的でプラクティカルで、感情がないみたい。」

 感情がない、か。もはやそうなのかもしれない、と僕は思った。今までの人生の中で理性で感情を無意識に抑圧してきて、本当に感情なんてものは消えかかっているのかもしれない。こうやって恋愛という自分の感情が一番あらわになるイベントにおいて、彼女とJとの一連のデートの話を聞いて何とか好意とか嫉妬とかそういう感情をギリギリ認識できたが、それも彼女からJとヤった、と聞いた直後だけで、そのあとは気味が悪いほど冷静になれている。というよりも自分は最初から彼女のことが好きだったのだろうか。もし本当に好きなのであれば早い段階で告白などしていたのではないだろうか。周りが彼女など作っているから、それについていくために自分も恋人が欲しいと思うようになっただけではないのか。自分の感情は本当に存在しているのだろうか。僕は余計混乱したが、そんなことはおくびにも出さずこう返した。「確かにね。俺はもしかしたらサイコパスか何かなのかもしれない」

 彼女は相変わらずマリファナを吸いながら「サイコパスって必ずしも悪いことじゃないのよ」と言い、カントリーミュージックをかけ始めた。「そう言えばどんな音楽が好きなの?」彼女はさらに聞いて、僕はまた少し考えた。自分はどんな音楽が好きなんだろう。そう考えると洋楽や邦楽など聞く曲はそれなりにあるが、広く薄くという感じで特にはまっているジャンルがないことに気づいた。そもそも僕はあまり歌詞のある曲が好きではない。それはその歌詞に共感できるような歌があまりないからで、せっかくメロディは好きなのになあと思うこともしばしばである。だから僕が普段聴く音楽はもっぱら映画のサウンドトラックやクラシック音楽ばっかりである。そこで僕はクラシックという答えをひねり出した。その時、僕はあることに気が付いた。これじゃまるでそっくりそのままハンニバル・レクターだ。どうやら俺は本当に精神異常なのかもしれない。今まで何とか社会に合わせて19年間生きてきた俺は、本当に俺なのか?それが眠いせいかマリファナのせいなのかよくわからなかったが、僕はさらに混迷のどん底に落ちた。

 その後Sとは音楽の話を続けたり(案の定彼女は僕がクラシックとかジャズと答えるのを予測していて、僕を本当にAIかロボットみたいだと再びからかった。)、またJの話に戻ったり、自分がやりたい事の話や将来の話、他愛もない話をしたりして、先学期の時のように数時間話した。僕は自分がまともに受け答えできているのに驚きつつ、そして彼女が全く僕の恋愛感情に気づかなかったことに感謝しつつも、自分の前に突然現れた自分の生き方そのものについての壁にぶち当たり、全く前に進めないでいた。自分は何者なんだ?これから一体どうすればいいのか?自分のやりたい事って何だ?自分は今幸せなのか?自分のやりたいことをやれば幸せになれるのか?幸せって何だ?僕は頭の中で堂々巡りするこれらの質問に答えることができずにいた。そしていかに自分が今まで自分に関して深く考えることなく生きてきたかを痛感した。

 彼女と様々な話をするうちにとうとう夜中の3時も過ぎてしまい、お互いに次の朝から授業があることから僕は帰ることにした。帰り際彼女は僕が心配したりアドバイスを与えたことに感謝し、統計の授業が終わってからもいい友達でいれてよかった、とぽつっと言った。疲れ切っていた僕はもはやそれに対する粋な答えを用意する余裕もなかったので、ただ笑ってお別れのハグをして、さよならを言って帰路についた。

 寮に帰るとすでに4時だった。もちろん寝れるわけはなく、そこから友人に電話をかけた。一時間ほど電話をして眠りについた。次の日朝起きて重い気持ちを引きずりながら授業に出て、授業の合間には友人に電話をかけた。またその次の日も別の友人に電話をかけた。友人たちはそれぞれ僕を慰めたり有用なアドバイスをくれたりして、自分の心が癒されていくのを感じたし、自分の感情を整理するのにも役に立った。しかし、「自分の感情が真にしたいと思っていることは何なのか」ということについては全く見当もつかず、自分の中で謎が深まるばかりだった。

 そんな中母親にも電話をかけ(もちろん何が起こったか全て話したわけではないが)、アドバイスを求めた。その中で僕が「自分が(勉強以外で)何がしたいかよくわからない」ということを発言した時だった。「前から歴史とか好きでイタリアとかギリシャに行きたいって言ってたじゃない?あれは?」

 そう言われてハッとした。この1年間大学に入学するため、そして大学の勉強についていくために自分がやるべきことを優先してきた。僕はその中で自分の純粋な興味からくることを無意識に拒否していたのだ。もちろん自分の大学での専攻も自分の興味のうちだ。だが自分の専攻を決める過程で、「将来の自分に役にたつかどうか」という視点を無視することができず、結局経済とCSというプラクティカルなメジャーを選んでしまった。そうだ。俺は本当はそういうことがしたいのだ。そう気づいた瞬間に、まるで堰を切ったように色々な「やりたいこと」が湧き出てきた。歴史、特に古代エジプト・ギリシャ・ローマを勉強したい。CSを勉強してデータの扱いや人工知能やそのような分野に関わりたい。イタリアに行って陶芸の先生に師事したい。経済の勉強をして世の中をあっと言わせるような理論を提唱してみたい。カナダのアルバータやデスバレーで恐竜の化石を掘りたい。バイオリンをもっと練習したい。ピアノも習いたい。国連で働いてみたい。スキューバダイビングがしたい。スキーがしたい。CG技術を学んで映画を作ってみたい。チームスポーツをやってみたい。起業して大会社の社長になって金儲けがしたい。そういう風に、「できるか・できないか」とか「自分のためになるか・ならないか」という視点を完全に度外視した時に、自分にはやりたいことがたくさんあるのだな、と気づいた。

 そうやって色々考えたときに、自分がやりたいことを半分無視する形でやるべきことをやっている今の状況はどうも息苦しいと感じるようになった。今まで日本にいた時には考えることもなかったような別の価値観を肌で実感することで、あまり感じなかった違和感を覚えるようになった。ただ、ここから自分がどう行動するべきか、ということは明白になった。ちょっとは自分の感情が入っていることにも耳を傾けるのだ。こうぐちゃぐちゃ考えて結局でた結論がこんなシンプルなのものというのはちょっと皮肉だが、結局そういうことなのだ。理性と感情のバランスをうまく考えていかなければいけないのだ。そう考えると少し楽になるような気がした。

 結局、今でも自分がやりたいこととやるべきことのバランスが取れているかというと、決してそういうわけでもない。まだまだ自分のやるべきことを優先している部分はあるし、今までの自分の生き方ってそう簡単に変えれるものではない。だが、今から意識して少しずつ変えていく努力をしなければならないし、変える努力をしたい。

「努力しようとするものが楽しむものに勝てるわけがない」という有名漫画のフレーズがある。その通りだと思う。そういう意味ではまだ人並みに人生を生きようと「努力」している僕は他人に遅れをとっているのかもしれない。と同時に、この先の人生において自分が他人よりも「幸せじゃない」人生を歩みたくはないし、そうなるとも思わない。今はまだ幸せが何かもわからないし、自分のしたいことがどのようなものなのかわからないが、自分が本当にしたいことを追求できるような人生を送っていきたい。

 結論として、自分の中の理性とか感情とかっていうものを意識することってあまりないかもしれないが、意外とせめぎあっているものだということに気づいた。特に自分の母国で暮らしている時には何も考えずにのほほんと生きてきて(もしかして、留学という機会がなければ一生考えることはなかったかもしれない)、自分の「したいこと」とするべきこと」を真面目に考えることってないかもしれないが、それについて考えていることができるいいチャンスになったと思う。やけに冗長的な文になってしまったが、最後に今回考えて結論として出たこと、結論が出なかったものを列挙したいと思う。

結論が出たもの

・感情を殺しすぎるときつい。気づかぬうちに心身ともにきつくなってくる。

・自分は理性が強すぎ。感情(表さ)なさすぎ。

・理性が強いことは諸刃の剣

・他人は自分とは違う

・アメリカ文化は日本の文化とは違う。一般的に言語化されているより全然違う。

結論が出ていないもの

・幸せってなんだ?

結論が出ているか出ていないかわからないもの

・自分がやりたいことはなんだ?

 

ここまでつきあって読んでくれてありがとうございました。まだまだ悩みつつ残り三年半の大学生活を謳歌していきます。